この世界は魔法が足りない。
理不尽な現象が頻発し、人を苦しめてしまう。
その最たるものが病気だ。
過去のどんな偉人も病気には抗えず、死を迎えた。
2世紀生き残った者は未だかつて存在しない。
人体の仕組みや食材の影響が完全に解明されない以上、病気にならない完璧な食生活など永遠に不明である。
現在進行形で自分が最適だと感じる食生活を自分で選択していくしかない。
人間という動物は体内環境の奴隷だ。
体内環境が悪化し慢性症状に悩まされれば、己の無力さに誰もが気付く。
活力と自信は、良好な体内環境を有していればこそ漲る。
慢性症状を患えば、どんなに強い意思を持っていようと否応なく能力を奪い去られる。
当たり前のことが出来なくなる自分に毎日直面する。
それがずっと続いていくのだから自信が消失するのは時間の問題である。
もしそれが進行性の病気であれば尚更だ。
脱出口がいつ訪れるのか分からない。
暗黒の灼熱トンネルを永遠に歩かされる感覚。
365日24時間一刻一秒が苦痛との闘い。
代表的な例は指定難病のALSだろう。
別名は筋萎縮性側索硬化症。
運動神経細胞が変性を起こし、運動神経に対して脳からの命令が伝達不能になる進行性の病気。
徐々に筋肉が萎縮し、手足も口内も動かなくなって自力で呼吸すらも出来なくなる。
自意識は失われず、日常生活に必要不可欠な運動能力が失われていく。
己の能力が剥ぎ取られていく様を日々まざまざと自覚させられる。
極めて理不尽で脅威的な病魔だ。
艱難辛苦と精神闘争の無限連鎖。
健常者の想像を絶する忍耐。
その消耗度合いは筆舌し難い。
長年必死に耐え抜いてきたALS患者が安楽死を希望したいという想いを抱くのは自然である。
365日24時間一刻一秒が凄まじい苦痛と不快との闘いなのだから。
根本治療法が確立されていない現状では、病の苦痛から逃れる唯一の手段は安楽死だ。
だが、日本ではそれが法律で禁止されている。
日本人が安楽死を合法的に実行するとしたら、スイスの団体ディグニタスに頼るしかない。
しかし、金銭面と申請面の両方でその障壁は高い。
やはり日本でも安楽死が合法化されるべきである。
私はそう感じている。
現在は生こそが何よりも素晴らしいという観点から世の中が成立している。
だが、それは生き地獄の強要にもなりかねない。
人それぞれ体内環境はまるで違う。
似て非なるものである。
環境といえば体外環境ばかりが注目されがちだ。
しかし、最も重要な環境は体内環境である。
難治性の慢性大病を患えば、どんなに有能な人物でも何も出来なくなる。
全く何も出来なくなる。
その状態を永遠に自覚し続けていくのだから、本人にとっては生き地獄だ。
「生の苦痛から解放されたい」
そういう感情を抱くのは当然だ。
そう感じたのなら当人にとっては絶対的に正しい。
生こそが絶対的正義という価値観は、体内環境に運良く恵まれた者の発想に過ぎない。
生>死でない。
生=死である。
「どう生きていくか」とは「どう死んでいくか」ということ。
「どう死んでいくか」とは「どう活きていくか」ということ。
生き方=死に方=活き方。
人は活きてこそ己の生に意味を見出す。
活きることが出来なければ、それを見出せなくなる。
閉じ込め症候群なら尚更だ。
自分の身体が牢獄と化し、そこに永遠に閉じ込められる。
しかも、それを永遠に自覚し続けなければならない。
そうなれば、己の生の終え方を思慮するのは当然である。
他者に対して死の強要が禁忌なのと同様、生の強要が禁忌であることも忘れてはならない。
体内環境に絶望する者にとって、他者からの生の強要は生き地獄を強要されることに等しい。
もし相手に生き地獄を強いるのなら、まずは自分自身に対して相手と同じ体内環境を再現してみるべきだ。
相手と同じ年数以上に同じ苦痛を味わって自分が耐え抜いてみるべきだ。
五感による内部苦痛を現在進行形で気が遠くなるほど体感することになる。
間違いなく音を上げることだろう。
我々は体内環境の奴隷なのだから。
「自分が自分でいられるうちに、己の生涯を己の意思と在り方で閉じる」
それは人間としての最終選択権だ。
「生き方を尊重する」とは「活き方を尊重する」こと。
「活き方を尊重する」とは「死に方を尊重する」こと。
人は生まれた瞬間から終活が始まる。
その終活の主導権を握っているのは、他ならぬ自分自身だ。
己の活き方を思案する。
それは「生き方」と「死に方」の両方を思慮することを意味する。
「私は究極的にどう在りたいのか」
最終的にはその問いに帰着する。
日常生活は自己対話の連続。
私はどういう活き方をしたいのか。
どう生きてどう死んでいきたいのか。
その自問自答が己の人生を形作る。
人の生涯は短い。
時間は寿命。寿命は余命。
生き方=死に方=活き方。
私は己の活き方を思案して活動する。
