孤高を究極し、自我と心中する。

生き方

最も独創性が高まり前進できる場所。

それが孤高環境だ。

1人の時間を生きているとき人は自己対話を余儀なくされる。

自分を外界から隔離し、己の精神世界と対峙する時間。

そこには他者が存在せず自己対話のみが顕在化する。

人生は自分に始まり自分に終わる。

我々は自我からは逃れられない。

何をするにしても何を感じるにしても自己感性が唯一の拠り所である。

私という人間が存在する意味。

私という自我が存在する意味。

それは己の感性を発揮することだ。

自己感性を揮うためには孤高を究極するのが最良である。

何故なら周囲に群れると自問自答する時間が失われ、他者からの口出しや集団常識に知らず知らずのうちに流されるからだ。

基本的に多数派の意見は間違っている。

常識的で普通であり、先鋭的ではない。

常識とは時代遅れの象徴である。

過去の孤高者が勇気を出して発信した最先端の価値観が数多の他者から批判されながらも徐々にその魅力に呼応する者が出現し、最終的に社会通念として人間世界に普及したもの。

それが常識の正体だ。

つまり、最初に孤高者が発信した時点では最先端であった価値観が紆余曲折を経て社会通念として浸透した頃には年月がだいぶ経過しており、もはや時代遅れの概念と化しているのだ。

我々は日本という法治国家の国土で生きている。

国の精神を表した最高法規である憲法、それに基づいて制定された法律。

それが我々が従うべき明文律だ。

個人の自由という概念は法という抑止力の基で定義される。

人間の本質は性弱説だ。

抑止力なき国土に自由は存在し得ない。

100%の個人自由は他者の個人自由を容易に侵害する。

何をしてもよいことが許されれば他者を誹謗中傷したり暴力殺害してもよいことになってしまうからだ。

国土における個人自由は100%未満で定義されるからこそ成立する。

概念領域20%の法支配によって概念領域80%の個人自由が保証される。

己の生命と自由を堅守するには法環境が不可欠である。

我々が従うべき明文律は日本国の思想と倫理に基づいて形成された法だ。

もちろん憲法や法律が絶対的に正しいわけではない。あくまで歴史上の比較優位解である。

技術発展速度に対して法改正速度が追いついていないのは事実だ。

だが日本は三権分立の国家体制を採用しており、時代に対して法が間違っているならまずは立法機関を通す必要がある。

法律を改正審議するのは唯一の立法機関である国会だし、新たに作られた法律が合憲か違憲かを最終判断するのは司法機関の長である最高裁判所である。

法治国家という在り方は現状の比較優位解に過ぎない。

だが、我々の日常生活を数多の危害から防護してくれているものが法だ。

それが唯一にして正式な実効支配力を持つ明文律である。

常識は法でない。只の古びた慣習だ。常に新世代に塗り替えられる虚構の束縛を盲信してはならない。

常識という曖昧模糊な不文律の支配から抜け出すには常識集団から脱出して孤高を極めていくことが最良だ。

常識に従い続けるだけの集団に開拓躍進の未来はない。

常識は超然するために存在する。

孤高という環境に身を置けば自然に独断する習慣が身に付く。

「これは自分でやる」

「これは他者に外注する」

「これはそもそも無意味で無価値だ」

そういう決断が当然の日常と化す。自分が注力すべき事象は何なのかを判断する癖がつく。

その独裁において守るべきものは常識ではなく法である。

法治国家において抑止力は法という明文律で発令されなければならない。

法的拘束力を持たない明文律や不文律は法ではない。只の狭い常識である。それに従うか否かは個人の自由だ。

法によって定義された自由領域をあえて自ら狭める必要はない。

抑止力を発生させるには法言語による明文化と発令が必須である。

孤高という環境に身を置くことで常識という集団意識から徐々に解放される。

「それは法なのか」

「それとも只の慣習に過ぎないのか」

それを見分けようとする姿勢が身に付いてくる。

孤高環境は己の感性と独裁力を育む。

人間が人間であるためには己の在り方の独裁者でなければならない。

独断するためには法の独学と自己対話が須要だ。

「自分は何を思いどう感じているのか」

「己の理想の在り方とは何なのか」

「時間という貴重な余命をどう使ってどう生きたいのか」

「その言動は法に違反するのか否か」

孤高環境はその自問自答を生み出す。

周囲と無意味に馴れ合えばその集団の固定概念が自由発想を妨害する。

否定されないか、嘲笑されないか、はみ出さないか、白い目で見られないか。

そういう負の感情に支配されて無意味な関係維持を重視してしまう。

己の最適解を模索することなく周囲に付き従うだけの毎日と化す。

だがその「周囲」という領域は実に狭くて古びている。

そこに気づくと軽快になれる。

資本主義では希少人才であることが何より大事だ。

人材ではなく人才となる。

集団の同調圧力に合わせる時点で貴重な人才には成り得ない。

日本国において唯一の正式抑止力は法であって常識ではない。

人は群れると周囲に合わせることを重視しがちになる。

集団を形成すればそこに通念が生まれ、それが自分の常識となって己の行く手を阻んでしまう。

あたかもその集団常識が自分の行動指針だと錯覚してしまう。

だがそれは自分で模索して到達した理念ではなく、あくまで他者が勝手に決めた理念である。それは法のみでよい。

しかし群れの中にいるとそれがあたかも己の在るべき姿だと洗脳されてしまう。

集団行動は自己対話と自己決断を停止させる。

それは集団心理がそうさせる。皆と一緒に行動していれば安心安全でいられるという幻影に浸れるからだ。

だがそれは非常に危険である。

今は集団ごと堕ちていく時代だ。

集団であることは正しさに寄与しない。

そもそも真の正解など誰にも分からない。というより未来永劫不明である。

結局は比較優位の判断となる。

だがその判断を下すにも基準が必要であり、その基準にも絶対的正解はない。

客観的な正しさを追求すればするほど無知の知という永久螺旋の深淵に迷宮入りしていくのだ。

人間が生きるという観点において大事なのは客観ではなく主観だ。

大多数がどう思うかよりも自分はどう思うのか、どう選択したいのか、何に心惹かれてどれが最良だと感じるのか。

その感性を最重要視すべきだ。

己の最適解は常に自分の中にある。

それを意識して追求していく活動が人生である。

その思考過程を文章や動画で可視保存していけば、世界の何処かに存在する自分と同じ属性の誰かにとって刺激となる。

主作用として利己心を発揮し我道を遊歩していけば、いずれは副作用として利他が自然発生していく。

己の最新最適解を追求していくには孤高環境が最良である。

私はそう感じている。

無意味な馴れ合いに価値はない。貴重な寿命の無駄使いである。

集団と正しさは無関係であり、真の正解は永遠に謎のままだ。

現在の客観的正しさは数千年後の未来人に判断してもらえばいい。

未来人が歴史を鑑みて相対比較で我々の正しさを判断するのが自然である。

真の正しさを解明するには永久完全なる前後関係が必要だ。

現在の正しさを証明するには全過去と全未来が解明されていなければならない。

だがそれは不可能だ。そのため客観的正しさは永遠に不明である。

客観に信用はない。真の正しさなど誰にも分からない。

「私自身は何を選択するのか」

結局はそこに帰着する。

客観を盲信せずに主観で決断する。

客観は材料に過ぎない。良いと感じたら採用すればいいし、違うと感じたら無視すればいい。

人間という動物は自我と一連托生だ。

自分が機械としてではなく動物として存在する意味。

自我という精神が己の体に宿る意味。

それは自己感性を揮って生きるために他ならない。

自分の意思判断を法規約の範囲内で最重要視すること。

自己中心力を高めて己の在り方を独裁すること。

それが人間の真価を発揮する在り方だ。

私はそう信じている。

人間という生物は他生命の責任を一切取れない。

自我という魂が己の体によって生み出されている以上、他者の自我を体感してその人の人生を生きることは不可能だ。

私が他者を生きることはできないし、他者が私を生きることはできない。

つまり、お互いがお互いに対して責任を一切取れないのだ。

だからこそ雑音を無視して主観で生きるべきだ。

人は自分に始まり自分に終わる。最期まで自我と心中するしかない。

おそらく数千年後の人類から見れば現代人の価値観はどれも古くて間違っているはずだ。

人類の歴史は価値観更新の物語である。

いつの時代も価値観を更新してきたのは己の思想を発信した孤高者である。

集団の同調圧力に流された者ではない。

無意味な束縛を全無視して別次元の精神宇宙を遊泳せよ。

多数派に同調せずに孤高せよ。

孤高環境が独自感性を育む。

私は自我と心中して生きる。


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