言語力は神通力だ。世界を解像し明瞭生彩に概念描出する力。己の心髄を映像伝播させる力。言語は絶大なる咒力と成り得る。

語学

私は外国語を独学している。主に英語であるが近頃になって中国語(標準語)に関心が向き始めた。

私の人生の根幹を成してきた母国語である日本語を一時封印し、外国語を白紙状態から咀嚼していく活動は新味に溢れている。私の語学活動に新鮮なる刺激と豊潤をもたらしてくれる。

最近ふと感知したことがある。それは「言語力とは世界を具に解像して明瞭生彩に概念描出する力であり、己の心髄を映像伝播させる力である」ということ。

人間は言語と融合して生きている。体内で発念した映像や感情を言語で定義し、その語彙表現にそぐわない部分は全て削ぎ落とすことで概念輪郭を造形しているのが我々人間なのだ。

つまり、人が脳内に出力形成する最終概念は語彙によって確定せしめている。すなわち言語表現力は世界捕捉の解像度と色彩度を決定付け、その人にとって理解可能な概念量を顕しているに等しい。

「寒い冬に車がスリップしている」

と表現するよりも

「雹が吹き荒れる極寒の最中、90年代を彷彿とさせる老朽化した乗用車が、凍てついた地面を凄まじい勢いで横滑りし、眼前の塀へ激突せんとする刹那だ」

と形容した方が映像描写として明瞭生彩であり、切迫した臨場感を纏う。

言語表現とは独自の感性を拠り所とした世界捕捉であり、己の五感を描出させた心髄伝播である。

言語能力は人間活動の支柱を担う。己の能才に対する生殺与奪の権を握っていると表しても過言ではない。言語力はその人物の命運を掌握しているのだ。

語学は変革活動である。己の世界を刷新させるほどの咒力(じゅりょく)を揮い得る。言語は人類が古代に発明し、開進と歩調を同じくして発展させてきた咒文(じゅもん)なのだ。

言語力は究極的には神通力だ。現状では到底無理と窺える事象であっても、語彙を用いて概念描写することでその正体を明瞭生彩な映像へと変容せしめれば、描出以前には感知できなかった要石の断片が遂に露見する。

その状態に達してしまえばあとは実行あるのみであり、専ら活動に没頭し年月が経過してみると、当初は実現不可能に憶えた事念がいつの間にやら眼前に具現化しているのである。

物事を紐解く手掛かりは言語化にある。無上の概念描出力と心髄伝播力を擁する言術師とも呼べる域に達すれば、人間界において万事奏功せしめるほどの絶大なる咒力を揮うだろう。

そう察知して以来、日本語能力を高進させる活動は私の人生において須要な営為であると自覚した。

私の言語能力を相対比較すれば日本語>英語>中国語という図式を成すのは自明である。すなわち、私という人間は日本語を介して思案している状態が己の才力を最大限に引き出しうる形態なのだ。

と言いつつも、私の日本語表現力は半可である。脳内発念した映像・感情に対する五感描出の精緻と生彩が未だ希薄だ。だがそもそもの話、日本語能力というものは生涯を通じて練磨していく代物だ。

私の言語領域の枢軸を担う日本語に対して重点意識を増強させた上で、言語という無形概念の真相を直観していきながら語学活動に勤しむ所存だ。

言語力は己の命運を掌握している。私の潜在能才に対して生殺与奪を為しているのが言語だ。日記文筆は言語練成の足掛かりとなる。日本語を駆使した概念描出力を自己速度で高進させていきたい。

私は言語練磨の果てに言術師と成る。