愛着は最強の心情概念である。
信用を遥かに凌駕する魔力を持つ。あらゆることが度外視になる。
端的に言えば「全てが許される力」だ。
信用の積み上げには多大な時間と労力を要する。それにも関わらずふとしたことで一瞬で吹き飛び無に帰す。
信用は脆弱だ。
どんなに丁寧に綺麗に仕上げたとしてもうっかり手から滑り落ちた瞬間に粉々に割れてしまうガラス製品と同じである。
それに対して愛着は強靭だ。
愛着が積み上がれば全ての失態が許されてしまう。
その生物がどんな性格をしていてどんな価値観を持っていてどんな行動を取ったとしても、そこに愛着が顕在するならその生物の全てが肯定され容認される。
それが日常的に起こるくらい愛着という魔力は凄まじい。
我が家には1匹のオス猫がいる。彼は我が家の王である。
彼は己の欲求の赴くままに行動し続けている。人に合わせることは一切しない。
自分の感じるままに好き勝手に動き回っているだけである。
期待に応えることなど皆無だ。
信用とは他者の期待に応え続けること。
その観点で言えば彼の信用度はゼロだ。
人間の期待を裏切り続けて己の感性の赴くままに生きるのが彼の在り方である。
論理ではなく感情で生きているので行動は突発的だ。
抱っこして愛でたいと思っているときは全く寄り付かず、諦めて寝ていると何故かやって来て私の膝関節にのしかかる。それが時にはナチュラルに関節技として極まってしまうこともあった。
新しい餌を導入すると舌が肥えるせいか以前の食事では満足できなくなる。昔は好んで食べていた餌も今では食べなくなってしまったものが幾つかある。
それでも食べてもらおうと餌を設置して放任すると「これではない!」と言わんばかりに天才的な運動神経を発揮して独特の助走から突進をかまして膝カックンしてくる。
彼は筋肉質で柔軟性が高いためスライド式ドアを容易に開けることができる。
にも関わらず大抵は他力本願だ。
他人にドアを開けてもらうべくドアの前でお座りしている。長時間開けてもらえないと痺れを切らして「にゃー」を連発する。
彼には昆虫を仕留める才能がある。その仕留めた獲物を人に見せるのが好きだ。
以前羽がついた物体を見せに来たことがあった。
今度は何を仕留めたのかと思いながら近づいてみる。
そこには黒と黄の縞縞模様をした異様な物体が横たわっていた。
ススメバチである。
しかも大きめの個体だ。
驚愕の極みである。
当の本人はまるで敵軍の総大将を討ち取ったかのように誇らしげな表情で私を見つめている。
畏敬の念を禁じ得ない。
私は彼に愛着を感じている。
信用はゼロだが愛着はMAXだ。
愛着は信用とは別次元の心情概念だ。信用より遥かに強靭な性質がある。
私は彼の行動の全てを容認できる。
彼が私の期待に沿うことは一切ないが、その代わりに奇想天外のことを次々とやらかしてくれる。
私は彼が好き勝手に行動している姿を見るのが好きなのだ。
本能的な生き方に魅力と愛着を感じる。
愛着は一度強固に形成されるとそれを切り捨てるのは困難となる。
信用と違って愛着には強靭性がある。
ふとしたことで一瞬にして崩れ去ることはない。もしそうなったとしたらそれは信用に過ぎなかったのだ。愛着ではなかったのだ。
愛着とは対象物との一体化である。
その生物の存在が私の体内で自己物質化して私の心髄と一体化するのである。
もはや自分の外部にある存在ではなく自分の体に内在する生命となるのだ。
愛着を捨てるということは自分の体を切断することに等しい。
そんなことは生半可な気持ちでは実行できない。
自分の体を大切に守ることは生物としての本能だからだ。
己の心髄が愛着した生物は自分の体と一体化してしまったも同然だ。
その生物の生命が自分の生命と融合してしまったのだ。
だから「愛着」という心情概念は強靭性が高い。
信用は他者に対していくら積み上げたところで他者から見れば他者の体の外部に存在するものだ。
それを他者が切り落としたところでその他者自身に支障はない。己の体と一体化していないからである。
全く痛くも痒くもない。
だが愛着は違う。
本人の意思とは関係なしに他者が勝手に感じて他者の体内で形成されるものだ。
愛着度が強まれば強まるほどその他者の心髄が愛着対象と結合されていく。
愛着対象が己の心髄に取り込まれて自己物質化が進む。
自分の体と一体化する。
もう切ろうにも切れない状態へと昇華する。
信用は期待の連続。
愛着は失望の連続。
対象生命から期待を裏切られ失望を重ねるごとに対象に対する己の愛着の真偽が試される。
それが自己行程内で真であることを自己確認する度に対象に対する愛着は成長する。
愛着とは裏切りの許容試練だ。
裏切りは他者が勝手に抱いた期待によって発生するものだ。そもそも期待とは身勝手な強制である。生命に期待すること自体が無意味な行為なのだ。
愛着には試練の自己突破が不可欠だ。そこには失望と葛藤と苦痛が伴う。
だがその試練を突破しきった者は愛着対象がどんな行動を起こしたとしてもその全てを受け入れられる。
いかなる失望に直面したとしてもそれを含めてその存在が成立していて、だから私は心惹かれているのだという自己確認と肯定処理が行われる。
愛着には「全てを受け入れる魔力」「全てが受け入れられる魔力」が存在する。
信用とは比較にならないほど強靭だ。
信用は期待に応えられなくなった瞬間に全てが無に帰すが、愛着は期待を裏切れば裏切るほど強まるのである。
他者を失望させ続けて初めて自分に対する愛着の正否が浮き彫りになる。そこで他者はふるいに掛けられる。いわば試されるのである。
その試練を自己行程で突破した者だけが対象に対して愛着を抱くのだ。
愛着とは単一ではなく複雑だ。
論理ではなく感情だ。
脆弱ではなく強靭だ。
そこには裏切りと失望と葛藤の試練が幾多に待ち受けている。
その試練を突破するからこそ「愛着」という心情概念は強靭に仕上がるのだ。
他者の期待を一切顧みずに本人が思うがままに好き勝手に行動して初めて本人に対する愛着は輪郭を帯びて顕在化する。
己の感性が創出する在り方に他者が勝手に心惹かれて結び付くことで発生する。
言うなれば、愛着とは対象者が自己中心性を発揮して初めて定義されるのだ。
他者の期待に沿うように動いている最中はただ信用を積み上げているに過ぎない。
他者はその生物の存在自体を好いているのではなく、自分の期待に応えてくれる「代替可能な欲求満足マシーンA」を欲しがっているだけだ。
対象者が他者からの期待に沿わずに己の感性の赴くままに好き勝手に言動し続けて初めてその人に対する愛着の真偽が試される。
その人を受け入れられるか否か/心惹かれるか否かを他者は自問自答し始めるのだ。
その自己行程を突破して愛着が真であることを自己確認できた者だけが対象者に対して心髄の一体化を始めるのである。
愛着とは裏切りと失望と信用失墜を積み重ねて初めて発生する。そこから自問自答の試練を突破しきった者だけが一体化を成して全容認者と化すのだ。
期待とは応えるものではない。
期待とは無視するものだ。裏切るものだ。
他者行程を捨てて自己行程を生きる。
他者の期待に応え続けることは他者の思惑通りに動き続ける機械と化すことだ。
他者の奴隷になることに等しい。
そこに魅力と愛着は芽生えない。
只の代替可能マシーンAと化しているに過ぎない。
苦労して蓄積した信用などちょっとしたことで簡単に吹き飛んで無に帰す。
それは自分という存在が他者自身によって他者体内で自己物質化されていないからだ。
切ろうとすればいつでも切れる。
そこに苦痛と葛藤は伴わない。
どうでもいい存在なのだ。
愛着の芽生えには個性が必須だ。
個性を発揮する以上、他者からの期待に応え続けることは不可能である。
個性を発揮するということは他者からの期待を尽く無視して裏切り続けることに他ならない。
他者の期待に応えているようでは無個性だ。そこに独自性は存在しない。
己の感性は独自性の塊である。
それを発揮して生きることは信用を捨てて生きるということだ。
その代わりに他者体内で愛着を芽生えさせる可能性を得るということだ。
信用と愛着は似て非なる。むしろ対極に位置する心情概念だ。
期待に応えれば応えるほど信用を得る。その代わりに愛着を失う。
期待を裏切れば裏切るほど信用を失う。その代わりに愛着を得る。
信用と愛着はトレードオフ。
信用は脆弱だが愛着は強靭だ。
もし積み上げるなら信用よりも愛着である。
期待ではなく失望を積み上げる。
信用ではなく裏切りを積み上げる。
他者中心でなく自己中心を積み上げる。
他者行程でなく自己行程を積み上げる。
それは長い目で見ると生命が幸せになる生き方だ。
強制や束縛が介入しにくい。
主作用として利己を追求すれば、副作用として利他が発生する。
私は失望の連続を放つ。期待を無視して裏切り続ける。
他者を顧みずに己の感性を発揮する。
自己中心性を高めて自己行程を生きる。
己の気質と特性を活かして自分の時間を生き続けるのだ。