人間関係は上書き保存だ。
価値観の更新に断捨離は付き物である。
価値観が変われば前提が異なるため話が通じなくなる。理解し合えなくなる。
共感できるもの/目指しているもの/今見ている景色/金銭感覚/行動/考え方。
それら全てが合わなくなる。
共に行動しようとすれば毎回意見が食い違い摩擦が生じて消耗する。別々の行動を取る方が互いにとって最良となり自然と縁は切れていく。
それはごく自然な在り方だ。人間関係に断捨離は必須である。
私には私の時間があり、他者には他者の時間がある。
時間とは余命である。余命とは不可逆消費物だ。命は刻々と削られていく。死が着実に近づいてきている。
余命という最も貴重な溶解物を消費してまで他者と時間を共有するなら、その余命の犠牲に値する価値がその人間関係に見出される必要がある。
つまり私も相手も同じ目的意識を有していて現在進行形で互いが互いを必要としていることが大前提だ。己の余命を消費するに値する等価交換がその関係に顕在することは必要不可欠である。
己の余命とは自分の時間だ。他者の時間はもはや余命とは言えない。それは死んだも同然の時間である。
人は己の単位時間当たりの価値を高めるために今を生きているといっても過言ではない。少なくとも私はそうだ。
私たちは死の秒読みの真っ只中にいる。残り時間がどれだけあるかを知る余地はない。
死は突然訪れる。
それは明日かもしれない。今夜かもしれない。1分後かもしれない。
私たちは余命を減少させて今を生きている。寿命は不可逆消費物だ。失い続けていく性質で二度と取り戻せない。
私たちは死への旅路を歩んでいる。1秒たりとも休まずに死へと接近している。
死は不可避であり不可逆現象だ。そこに到達したとき現世活動は強制終了する。
私たちは人生終焉を前提として今を生きている。有限時間を生きている。
だからこそ自分の生を可能な限り活かしていきたいという発想が生まれる。
死とは生であり、生とは活である。
生きるとは活きることだ。
活きるとは自分の単位時間当たりの心髄価値を高めることだ。
己の価値の最終決定者は自分であって他者ではない。
いくら他人から賞賛されようが感謝されようが批判されようが嫌悪されようが、自分の生の価値に対する最終決定者は自分自身だ。
他者は私の人生を生きれないし、私は他者の人生を生きれない。
私の生の絶対的感性者は私自身だ。
私の生の絶対的基準者は私自身だ。
他者は好き放題に口出しをしてくるものだ。あらゆる場面で干渉してくる。だが彼らがその責任を取ることは一切ない。
「あなたのため」「誰々のため」「組織のため」「社会のため」「世界のため」という大義名分を用いて「正義は我にあり」と言わんばかりに口出ししてくる。
だがそれらの全ては口出ししてくるその人自身のためである。自分の欲求を満足させるためであって大義名分は建前に過ぎない。
実際は「口出ししたい」という欲求を自ら勝手に感じてそれを満たすために私に対して/あなたに対して口出ししているに過ぎない。
そうすることで快感を得たり自分を守れたりするからだ。口出ししたくてそれをせずにはいられないのだ。
結果的に他者を守ることに繋がることがあったとしてもそれ自体は言動の原点ではない。
あくまで自分の欲求が根源でありそれを満足させることが優先順位の第1位である。それが他者による口出しである。
本当に他者を守りたいと思っているとしたら、それはその人を失う自分が恐いからその自分を守るために他者を守ろうとしているに過ぎない。
全ては自分の欲求が原点にある。人は誰しも自分自身のために行動している。
「あなたのため」「誰々のため」「社会のため」「世界のため」という大義名分は根源として存在していない。それらはあくまで建前である。
それらが実現したとしてもそれは自分のために取った行動の副産物に過ぎない。副作用であって主作用ではない。
当然私も同様だ。私は私自身の欲求に基づいて日々行動している。
この日記も全て自分の欲求を満たすために書いている。
過去の自分に向けて/現在の自分に向けて/未来の自分に向けて書いている。自分自身のために書いている。
その文章を人の目に触れる可能性がある場所に可視保存している。
自分と同じ側面を持つ他者がこの日記に辿り着いた際に副作用として新たな価値が発生するかもしれない
勝手にそう思って自ら公開している。
私は書きたいから書いているし、保存したいから保存しているし、公開したいから公開している。
自分の過程を振り返る際にスマホで簡単に閲覧できるのも便利だ。
私は書き手であると同時に読み手である。自分に向けて書いて自分に向けて読む。
自分に向けて書いているということは、この世界に存在する「自分と同じ人間」に向けて書いていることに等しい。これは主作用ではなく副作用である。
現実世界では誰もが自己中心性を発揮している。自分のために行動している。貴重な時間を消費しながら生きている。
私たちは余命を削って生きている。死という最終地点に対して接近している。
残された時間を割り振りながら生活している。
生活とは「生きて活きること」だ。
時間の割り振りは零和だ。何かを得る代わりに何かを失う。
自分の生を活かすには己の感性に基づいた価値基準を自覚することが大切だ。自分にとって何が一番大事なのかを実感して決断することが要石である。
私の場合は「自分自身の時間」が何よりも大切だ。
それが前提のため上書きの人間関係は必然であり自然である。
逆に上書きされていないなら自分の価値観が全く更新されていないということだ。
新たな発見に遭遇していない/新しい景色に出会っていない/新しい試みを実行していない。
そういうことだ。
人間関係には万有引力が働いている。誰もが引力を有している。そこに人が存在しているだけで引力を発生させている。
互いが互いに対して万有引力を及ぼし合っている。互いを引っ張り合っている。
関わる人数が増えれば増えるほど自分に鎖が絡まる。色んな方向に引っ張られる。良い意味でも悪い意味でも引きずられる。
自分にとって正の鎖になることもあれば負の鎖になることもある。鎖は増えれば増えるほど束縛が増して鈍重になり、減れば減るほど束縛が減って身軽になる。
行動を起こすのに邪魔になる鎖は全て断ち切る。断捨離を決行する。
今あるものを捨てなければ新しいものは手に入らない。「得る」と「失う」は表裏一体だ。
何かを得るなら何かを失うし、何かを失うなら何かを得る。
少なくとも我々は「時間」という余命を失い続けている。その代わりに現実世界を動体的に生きている。
人間関係は断ち切れば断ち切るほど自分の時間を確保できる。余計な干渉や束縛から離れられる。
断捨離することで自分の活動に集中できる。自己行程に専念する意思と体力と時間が得られる。他者に囚われない独自の発想が浮かぶようになる。
自己中心を突き詰めれば究極的には利他となり、他者中心を突き詰めれば究極的には利己となる。
常識・慣習・同調を強要する他者との関係を断ち切れば精神は軽快になる。己を縛り付けていた負の鎖から解放されて翼が羽ばたく。
己の感性による独創的な発想と行動が偶発的に生じるようになる。新世界を夢想して作り出す可能性が見えてくる。
自分にとって必要不可欠な存在、自分の命と心髄に深く関わる存在は極少数でいい。片手に収まるくらいで丁度いい。
その他の人間は全て自分にとって代替可能な存在である。大事な存在ではない。
大切に想う対象を絞れば絞るほど1人当たりに注げる心髄鋭気は強大となる。その人のことを実際に大事にできる。
大事にするということは対象を絞るということだ。絞らなければ濃くならない。レーザービームの光力と一緒である。
レーザービームの広がり角が大きくなればなるほど照らせる範囲が広まる代わりに単位面積当たりの光力は格段に弱まる。
レーザービームの広がり角が小さくなればなるほど照らせる範囲が狭まる代わりに単位面積当たりの光力は格段に強まる。
同じ消費電力でもLEDなら直視しても大丈夫だがレーザーなら直視すれば失明する。それくらい光力は強大になる。注力対象を狭く絞っているからだ。
絞るとは捨てることだ。捨てれば捨てるほど対象を絞れてその分だけ光力が強まる。注力量が増大する。
これは人でも物でも活動でも一緒だ。
新たな挑戦を邪魔してくる他者との関係は全て断ち切る。以前仲が良かったか否かは一切関係ない。現在進行形で行動する自分にとって邪魔以外の何物でもない。
価値観の更新のためには人間関係の断捨離は必要な犠牲だ。そこに悩んで消耗している時間が勿体ない。本当に大切に想う存在は数人でいい。別に自分自身だけでもいい。
これは残酷でも何でもなく優先順位の問題である。
「自分にとって最も大切なものは何なのか?」
それが人によって異なるだけだ。
人間と動物。
家族と友人。
自分と他者。
自己対話と他者対話。
自己活動と他者交際。
その違いに過ぎない。
現在の私は「自分自身の時間」が無上に肝要である。
自己中心力を高めて自己行程を生きる。
他者に惑わされず自分自身の活動に専念する。
私の心髄過程を可視保存する。
私と同じ側面を持つ人間がこの日記に辿り着いた際に価値が発生すれば心躍る。
余計な人間関係を断捨離して自分自身の時間を生きる。
自分の気質と特性を存分に活かせる環境を選択して己の感性を発揮して活きる。
偶発性を重視して新しい景色に出遭う。
過去のものを捨てて新しいものを手に入れる。
己の価値観の更新と共に関係を上書きし続ける。
自己中心力を高め、自己行程を生き、己の時間を活きる。
寿命を消費しながらこの刹那を活き続けるのだ。