人間の命は有限である。
長く見積もっても100年余りだ。
時間は二度と取り戻すことができない。
価値が最も重い概念だ。
「時間=寿命=生」
時間とは生そのものだ。
例えば無実の罪で刑務所に収容されたとしよう。
懲役30年の刑を受けたとしよう。
呆然とする。
最低限の食事はあるが環境は劣悪だ。
運動は決められた時間のみ。
決められた懲務を長時間こなしてあとは独房でどんより過ごす。
インターネットもない。
娯楽もない。
交流も少ない。
空気は毎日重くて暗い。
生と死の狭間にいるような感覚。
自由意思が奪われた空間。
時間と行動が制限された場所。
知らず知らずのうちに自尊心や自信が失われていく。
そんな閉鎖空間で30年を過ごす。
そういう状況に陥ったら私はどう感じるだろうか。
30年後に外界に出てこられた時に何を感じるだろうか。
私なら30年という途方もない時間を消失したことに対する絶望・虚無・無念・屈辱・後悔に苛まれるだろう。
最も失ったものは何かと言われれば恐らくそれは「時間」だろう。
己の意思で選択・行動して生きれたはずの30年という時間が強制的に奪われた。
これほどむごいことはない。
その30年には活きた人生があったはずだ。
様々な挑戦をして数え切れないほどの失敗をして。
その中で成果が出たものが幾つかあってそれが凄く嬉しくて。
過去に経験したことのない広大な土地を旅して異世界の人と交流して価値観がガラリと変わって。
自分の好きな趣味に没頭したり家族との大切な時間を過ごしたりして。
そういう活きた時間を消失した事実が胸中を貫く。
痛くて苦しくて悔しくて張り裂ける。
そんな感情を抱く気がする。
想像の範疇を超えてしまう気がする。
時間の消失とは人生の消失である。
命の消失である。
自分の時間を生きれなかったという後悔の念はその後の人生に纏わり付いて重くのしかかる。
このことは仮定の話のみならず日常生活でも似たような状況が起こり得る。
職場でも学校でも自宅でも街中でもどこでも起こり得る。
私は己の行動を己の意思で決めているだろうか。
私は己の道を突き進んでいるだろうか。
そう自分に問いかけてみる。
すると自分の時間を生きているか否かが分かってくる。
時間は最も貴重な消費物。
「生涯を通して自分の時間を生き続けること」
「己の感性の声を聴いて己の意思で選択し行動し続けていくこと」
大事なことだ。
最期の瞬間に我が人生を振り返って納得感と満足感に浸って静かに瞼を閉じれる。
私はそういう人生を生きたい。
自分の意思で自分の道を選んで歩んでいきたい。
今この瞬間に集中して没頭したい。
私は自分の時間を生きる。
自分自身の人生を歩むのだ。