現代社会は「あなたのためにしてあげた」という感情で溢れている。
どこか恩着せがましい。
ありがた迷惑だ。
大きなお世話だ。
私はそう感じている。
自分の課題と他者の課題を分ける。
それは相手に対する尊重だ。
「あなたのためにしてあげた」
それは相手を疲労させる言葉だ。
消耗させる言葉だ。
結局それは自分のためだ。
「自分のためにそれをした」
「自分がしたいと思ったからした」
それが真実だ。
相手をコントロールしてはならない。
自分で勝手にしたことなのに「あなたのためにしてあげた」と錯覚しているからイライラが募る。
本当は自分がしたくて勝手にしたこと。
私自身よく弁えておきたい。
相手に対してフィードバックを強制してはいけない。
見返りを強制してはいけない。
「あなたのためにしてあげた」に対して必ず反応しなければならないとしたらいくら時間があっても足りない。
心が掻き乱される。
激しく消耗する。
寿命を無駄にする。
私は違和感を覚える。
相手に対して返信を義務づけること。
相手に対して価値観を押し付けること。
常識という言葉を使えば大抵のことがまかり通る世の中だ。
常識は思考停止。
「皆がそうやってるから社会がそうなっているから有無を言わずに従え」
それはやはりおかしい。
もはや洗脳の域だ。
「あなたのためを思ってメールしたのに返信がないなんて!」
こういうケースもよくある。
返信は義務化されてしまっている。
強い違和感を覚える。
「私はあなたのためにわざわざ時間を割いてやってあげているんだ」という意識から発生する感情だと推測する。
本来よくよく考えてみればメールや電話は自分がしたいと思ったからするもの。
返したいという感情が湧き起こったから返すもの。
決してしなければならないものではない。
強制的に返信しなければならないものではない。
LINEの既読機能も同じだ。
こっちは既読になると「早く返信しなければ」という感情に駆られてしまいがち。
あっちは「既読ならさっさと返信しろよ」と思う。
でも既読と返信は全く別の話だ。
「読んだら早く返信しなければならない」という暗黙規則はおかしい。
相手を勝手にコントロールしている。
相手に勝手にコントロールされている。
自由と時間が奪われている。
時間とは寿命である。
人には寿命の使い方を選ぶ権利がある。
そこに義務は一切ない。
返信がどうしても欲しい時に返信が来ない。
それは自分にも要因があると考えるのが自然だ。
返信がないのを相手の責任にしないようにしたい。
私自身よく心得ておきたい。
「自分のメッセージが相手にとって価値がなかった」
「相手が忙しくて見過ごした」
返信がこない理由はこの2通りだろう。
大抵は前者だろう。
相手にとって内容がつまらなかったり気が向かなかったり重要じゃないから返信がない。
返信に割く時間が勿体無い。
重要だったり楽しくて面白い内容だったら返信が来る確率は高い。
メッセージを送って既読がついたら「読んでくれてありがとう」と思うようにしたい。
私は送りたくて勝手に送ったのだ。
相手に返信義務は一切ない。
LINEの既読という機能は何のために作られたか。
「読んだか読んでないかが分かるという只の事実確認のため」だと私は思う。
この機能が意図しているのは「相手は自分のメッセージを見てくれたんだな」というところまでだと私は思っている。
相手が見てくれたという事実確認をするためだ。
そこから相手を焦らせるためのものではない。
返信を強制させるためのものではない。
むしろ「メッセージを見てくれてありがとう」という気持ちが自然だと思う。
LINE既読による返信義務の発生という暗黙規則は現代社会の「常識」「社会通念」という意識がそうさせている。
私はできる限りそれらをスルーして生きていきたい。
私は縛られるのが苦手だ。
束縛が苦手だ。
義務が苦手だ。
私は自由意志が好きだ。
それが本来の地球生物の姿のはずだ。
その感情に蓋をするのは勿体無いと思う。
もっと自分の気持ちに素直になりたい。
自分が感じる違和感を汲み取って大切にしていきたい。
違和感は自分が抱く負の感情に隠れていることが多い。
負の感情は自分の価値観が色濃く現れた局面だ。
それは自分らしさそのものだ。
もっと自分の感情を聴く。
自分の内部の声を大切にして生きる。
究極的に自分志向で生きる。
それが私という人間の存在理由だ。
私自身の体と心のために生きることが私の存在意味になるのだ。
そういう意識だからこそ他者の自分志向も素直に受け入れられる。
他者の価値観も尊重できる。
価値観の統一は必要ない。
合わせなくていい。
私は自分志向を大切にしたい。
他者の自分志向を尊重したい。
私は自分志向で生きる。