「働く」という言葉。
社会通念のしがらみが纏わり付いている。
これとセットで連想されるのは「他者のため」という言葉だ。
「あなたのためにしてあげたのに・・・」
私はこの台詞に違和感を覚える。
「私は他者のために働いている」
「私は他者の役に立っている」
「私は社会の役に立っている」
・・・本当にそうなのか。
・・・本当に他者のためなのか。
・・・本当に他者の役に立っているのか。
表面的にはそのように見えただけ。
本当のところは何の役にも立っていない。
勝手に勘違いしているだけ。
単に自分の価値観を押し付けてしまっているだけ。
相手の価値観を押しのけ強制させただけ。
いつの間にか思い上がっているだけ。
自分の行動が結果的に他者のためになることはある。
それは相手が自然に心の内で感じること。
相手に無理矢理そう感じさせるものではない。
「私は他者のために行動しているんだ」
結局は大義名分が欲しいだけだ。
自分という存在を現代社会に認められる安定的かつ高位なものにしたいだけ。
他者のためという言葉を利用して自分の存在価値を確かなものにしたいだけ。
だが本当に他者のためになっていることなどこの世界ではほとんどない。
真に社会の役に立っているのはほんの一握りの人数だけ。
全てが勘違い。
全てが錯覚。
自分では他者の役に立っていると錯覚している。
本当のところは何の役にも立っていない。
周囲の人間が認めてくれたとしても本当はゴミのような所業を成し遂げただけ。
役に立つどころか新たなゴミを生み出しただけ。
たとえそんなつもりはなかったとしても。
私は自分自身のために生きる。
他者のためなんかじゃない。
自分自身を満たすために活動する。
自分にとって楽しいと思うからそうする。
究極的には自己満足のために行っているに過ぎない。
私は「仕事」という言葉があまり好きじゃない。
人は言葉に引っ張られる。
仕事はどうしても「事に仕える」ようになってしまう。
義務的に機械的になってしまう。
「活動」という言葉がしっくりくる。
「活きて動く」
私はこの言葉が好きだ。
「働く」とは「究極的には自分の欲求を満たすためにやるもの」だ。
「人様のため」という大層なものではない。
「自分自身のため」というのが健全な精神だ。
「私は他者のために働いてるんだ」
「私は他者の役に立っているんだ」
「私は社会の役に立つために立派に行動できているんだ」
そんな思い上がった考えは持たないようにしたい。
勘違いも甚だしい。
全ては自分自身のために実行する。
自分自身のためにやった行動の結果が他者の役に立つことはあるだろう。
だがそれは他者のためにやったことではない。
全ては自分自身の欲求を満たすためにやったことだ。
それが最も自然な精神だと思う。
私が生み出したものが他者にとってゴミに映ろうと関係ない。
私にとっては紛れもなく成果物の1つだ。
それは自分志向だからこそだ。
「他者のためにやってあげている」という意識でやったのであれば全てがゴミだ。
時にはゴミを通り越して毒物になる。
それを自覚して生きる。
私たちはゴミを出し続ける地球生物だ。
私はその中の1個体だ。
だからこそ良い意味で分をわきまえて自分自身のために生きる。
自分自身を満足させるために生きる。
「他者のため」という言葉は使わないようにする。
そうすれば良い意味で他者のことが気にならなくなる。
同時に他者に対する強制意識・義務意識も薄まる。
束縛精神の側面を縮小できる。
自分志向で生きられる。
他者の自分志向も尊重できる。
小さな成果物を大量に作り続けていこう。
役に立つかどうかなんて知らない。
時代に依る。
人に依る。
そんなことは考えなくていい。
そもそも他者志向で見れば全てがゴミ。
だが自分志向で見れば全てが成果物。
淡々と生み出し続けることだけを考える。
「全て自分のためにやっているんだ」という心を持っておくだけ。
決して他者のためではない。
私自身よく弁えておきたい。