余計な未来を一切考えずに感性の赴くままに行動し続ける天才。
幼い頃、私はいつも無心になって取り組んでいた。
ハイハイからヨチヨチ歩きになり、いつの間にやら二足歩行出来るようになった。
日本語を聴いて話すことを覚え、読んで書くことを覚えた。
自転車に何度も挑戦するうちに、当然のように乗れるようになった。
そう。
全ては「いつの間にやら」できるようになったのだ。
あの頃は「それが今の自分にできるかどうか」なんて考えていなかった。
やりたいと思ったからやってみただけ。
面白そうだから取り組んでみただけ。
やってて楽しいから続けているだけ。
そんな純粋な気持ちだった。
周りなんか全く見えていなかった。
良い意味で見えてなかった。
「自信があるか否か」
「今の自分にできそうか否か」
「失敗しないか否か」
そんなことは一切考えていなかった。
そういう余計な未来を考えずに行動し続ける感性の天才だった。
いつから私は「小賢しく」なったのか。
いつから私は「今の自分にできそうかどうか」を気にするようになったのか。
いつから私は「上手くいかなかったら嫌だ」と心配するようになったのか。
いつから私は「妙なプライド」を持つようになったのか?
いつから私は「周囲の目」を気にし過ぎるようになったのか?
いつの間にか未来を心配するようになった我々。
初めてやることなんてうまくいかなくて当たり前。
それは「失敗」ではなく「事実」が存在するだけ。
その事実が成功か失敗かは全て「私の主観」が解釈している。
「失敗」自体が怖いんじゃない。
「評価の目」が怖いのだ。
でも待って。
そもそも私は評価をもらうほどの存在でなければならないのか。
いや、そんなはずがない。私が勝手に思い込んでいるだけだ。
そもそも高が知れているのだ。
余計な意識を捨て去る試みを積み重ねる。
見栄があると他者の評価の目が怖くなる。余計なことを考えてしまう。
自分という存在の価値が揺らぐ気がしてしまう。今の自分にできるかどうかをつい考えてしまう。
そんなことを考える必要はなかったのだ。そもそもできるかどうかなんて誰にも分からない。
人は取るに足らない存在だ。地球・太陽・銀河・宇宙からしたら人はあまりにちっぽけだ。地球・太陽・隕石の機嫌一つで滅びる存在だ。
人間という存在の分を良い意味で捉えて肩の力を抜いてみる。
余計な見栄を捨ててもっと楽に生きる。
今の自分に「+1」していく
関心を持ったことに無心で取り組む。取り組み続けていくうちに何故か上達している。
得意か否か、才能があるか否かは考えない。興味を持ったらやってみる。
楽しそうだから、面白そうだから、好きだからやってみる。
行動に必要な動機はそれだけだ。
余計なことは考えずにひたすら反復する。目の前のことに集中する。 小さな一歩を踏み出してみる。
今の自分に地道に「+1」していく。
それが大事だ。
「やってみたいかどうか」行動基準はそれだけだ
子供はみな、生まれながらに芸術家だ。
問題は、いかにして芸術家であり続けるかということだ。パブロ・ピカソ
「やってみたいかどうか」
それだけを問えばいい。やってみたいと感じたなら早速今から始めてみる。
今この瞬間を楽しむ。
己の感性の赴くままに行動し続ける天才であれ。