魅力とは「相手の価値観の中で勝手に見出される光」
魅力とは何処から生まれる要素か。
元から存在している要素なのか。
他者がいなくとも存在する要素なのか。
それは違う。
自分の魅力は相手が自然に見つけてくれるものだ。相手が勝手に見つけてくれるものだ。
私の魅力とは他者が私に対して感じた“光”なのだ。自分と他者の関係性の中で見出される“光”なのだ。
相手が存在して初めて浮き彫りになる。自分自身で見い出すものではない。相手視点で見い出されるものだ。
それは相手の価値観の中で発生する。勝手に見出される。
そもそも自分で意図して作り出せるものではない。無理に頑張って作り出す必要などない。
自分と相手が存在してその相手が自分に対して感じた“光”こそ自分の魅力だ。
自分が相手に対して感じた“光”こそが相手の魅力だ。
魅力は実に主観的なものだ。事実ではなく解釈だ。
相手の主観的な解釈がなされて初めて認識されるものだ。
相手が誰かによって自分の魅力の内容は様変わりする。
魅力とは生き物だ。常に変化する光なのだ。
魅力を出そうとすればするほど魅力を失うという矛盾
魅力は相手の主観的な解釈によって認識されるもの。
相手が誰かによって様変わりするもの。
ならば自分の魅力を作り出そうとすること自体が無意味ではないか。
そもそも自分で作り出す必要などないのではないか。
人はつい他者から見て魅力的であろうとする。自分の価値観を捨てて他人の価値観に無理に合わせようとする。
だが他者に対して魅力的に映ろうとすればするほど不自然になる。ぎこちなくなる。
自分の意思・想いが消失する。魅力を出そうとするほど逆に魅力的でなくなる。光が消える。
そういうことがよくある。
好かれようとする感情は「曲者」だ
私たちは無意識に好かれようとする。皆に好かれたいと思ってしまう。
だがそんなふうに思って好かれたことがあっただろうか。
私にはなかった。好かれようとすると好かれなくなる。面白い矛盾だ。
余計なことを考えずに自分の思う通りに行動し続ける。するとなぜか自分を気に入ってくれる人が現れる。
それが現実だと思う。
好かれようとする思考・感情・行動はやはり「曲者」だ。自分を見失うことになる。
人が人である以上、無意識に発生する。でもそれを捨てる。
自分が思う通りに生きよう。自己中心力を発揮するのだ。