どう生きていくか = どう死んでいくか = どう活きていくか

生き方

我々は今を生きているが最期には必ず死を迎える。

肉体生物である以上、細胞分裂を繰り返して限界点に達したとき人は現世活動を強制終了する。

我々は常に死に向かって生きている。死という前提があって生きている。

「自分の人生をどう生きていくか」

それは「自分の人生をどう死んでいくか」という問いに等しい。

生は死があって初めて定義される。死があるからこそ生という概念が生じる。そこに貴重性が見出される。

「生」とは「死」という目的地に達するまでの行程だ。

「どう生きていくか?」とは「どう死んでいくか?」に他ならない。

死が最初にあってその次に生がある。

死という現象は不可避だ。生とは不可逆消費だ。

だからこそ人は自分の生の活かし方というものを思案する。

つまり「どう死んでいくか」とは「どう活きていくか」ということだ。

活きるためには取捨選択が必要になる。何を取るために何を捨てるか。選ぶとは捨てるということだ。

人は貴重性が高いものを大事にする。貴重性が低いものは大事にしない。

現実世界において人間視点で見れば最も貴重なものは「個々人の命」だ。

自己視点で見れば「自分の命」だ。その次に貴重なものは自分の命と心髄に深く関わりのある極少数の他の命だ。

自分の命と心髄から精神的距離が離れた他の命ほど自己視点では貴重性は下がる。大事ではなくなる。極論を言えばどうでもいい存在になる。

「大事」という心情概念には優先順位が存在する。相対比較が存在する。

あれもこれもどれも全て等しく大事というのはあり得ない。

何かを大事にするということはそれ以外の何かを大事にしないということだ。捨てるということだ。

なぜ捨てる必要があるのか?

それは自己資源が有限だからだ。時間が有限だからだ。注力可能対象が有限だからだ。

大事にするには注力が不可欠だ。

注力するには時間と労力の投資が必要である。

時間とは人間が有するものの中で最も貴重な不可逆消費物だ。失い続けていく性質があり二度と取り戻せない代物だ。

時間とは寿命である。人間の寿命は長くて100年余りだ。

人が使える時間というものは既に有限定義されている。

だから後はそれをどう割り振っていくかを考えるしかない。

我々はゼロサムゲームをプレイしている。

どれを選ぶ代わりにどれを捨てるのかを随時選択し続けていくのだ。

捨てないと選ぶことはできない。捨てなければ選んだことにはならない。

どれも全て等しく大事にしようとすることは結局どれも全て等しく大事にしないということに他ならない。

捨てて初めて選ぶことができる。注力する時間が確保できる。

選ぶとは注力する対象をどれにするか決定するということだ。

選ぶと捨てるは表裏一体である。

注力できて初めて自分の能力は進化する。

注力には断捨離が不可欠だ。そして自己行程を自ら作り上げていく必要がある。

人は他者行程では活きない。自己行程でこそ活きる。

己の気質・特性が活きる最重要事象に対してこそ自分の時間を使うべきだ。それ以外の事象に対しては自分の資源を使うべきではない。そっち方面は捨てていい。他者に任せてよい。

死までの残り時間をどう使うのか?

何を得るために何を捨てるのか?

どんな行程だと私は活きるのか?

私が求める幸せの在り方とは何なのか?

それを決定するのは私だ。実行するのも私だ。評価するのも私だ。

私は他者ペースに惑わされずに自己ペースを貫いていきたい。

自己中心力を持って生きていきたい。

自分の身体に吸収していきたい。

自分の活動に集中していきたい。

私は自分の行程を生きる。

そして私は活きる。