絶望は幾度味わってもいい。自分と同じ苦痛を味わっている人間がこの世界の何処かに必ず存在する。今の自分が生きることには意味がある。

生き方

現実世界を生きていると他者との差異は意識せずとも感じるものだ。

たとえ見たくなくても聞きたくなくても自身の五感が勝手に算出してしまう。

時にはそれが劣等感を生み出す。

深刻な状況になれば劣等コンプレックスに様変わりする。

特に身体的事象・病気の場合は根が深い。

人間の力ではどうにも解決できない局面が存在するからだ。

己の心中の奥深くに負の引力として渦巻いてしまう。

頭では分かっていても心が条件反射的に反応してしまう。

感情は論理に先んじる。

目の前の現象から瞬時直結的に感情というものが発生する。

劣等感は己の五感と感性が瞬時に無意識に生み出すものだ。

人は劣等感を抱いた事象に対して様々な試行錯誤を繰り返す。

それでも改善の余地が見られない現実を目の当たりにすると希望を失う。

劣等コンプレックスへと様変わりする。

それが負の引力となってあらゆる場面で前に踏み出したい一歩を阻止する。

頭では気にせずに実行した方が良いと分かっていてもいざその場面になると深い傷を負う心が魔の手となって自身を捕縛する。

無視して無理矢理行動してみても苦痛を感じ続けている自分がいる。

自身に起きた現象がどうやっても解消できない。

その事象は己の感性が告げる美意識や理想像とかけ離れている。

だから許せずにもがき苦しむ。

目を逸らしたくても逸らすことができない。

他者という存在が否応なくその事象を思い出させる。

深く鋭く心を抉られる。

忘れたくても忘れられない。

私は思う。

改善の余地が見られないなら徐々にその事象を受け入れていくことも必要だと。

希望がわずかでも残っている時は人は試行し続けられる。

だが改善の余地が見られない現実が5年、10年と継続すると絶望を感じる時間が訪れる。

それは至極当然のことだ。

人間なのだから。

不完全なのだから。

絶望を抱いた感情を否定しなくていい。

絶望の淵にいる時は「自分と同じ状況で苦痛を味わっている人間がこの世界の何処かに必ず存在する」と想像してみる。

世界の人口は約77億人だ。

それだけの人数がいれば自分と同じ事象で苦痛を感じて絶望の霧に包まれている誰かが必ず存在するはずだ。

自分の味方は遠く離れた彼方に必ず存在しているのだ。

私はそう信じている。

そこに気が付くと心中にあった負の重力を幾らか共有できた感覚になる。

苦しさや辛さが緩和する。

今の自分という存在を完全否定する必要はないんだということに気付く。

自分を完全否定するということは自分と同じ状況に苦しむ誰かを完全否定するということに等しい。

それは相手に対する侮辱である。

苦痛が限度に近づくと自分で自分自身を完全否定して中傷して軽蔑してしまいがちだ。

そういう状況に自分が陥っていると気づく。

その時はこの世界の何処かに存在する「自分と同じ状況で苦痛を味わっている誰か」を想像してみよう。

私は彼を完全否定していないか?

私は彼を軽蔑して中傷して貶めていないか?

私は彼をゴミ扱いしていないか?

私は彼を汚物扱いしていないか?

今の自分を肯定するということは自分と同じ状況で苦しんでいる誰かを肯定するということ。

今の自分を勇気づけるということは自分と同じ状況で苦しんでいる誰かを勇気づけるということ。

そこに気が付くと今の自分が存在することに対して意味を見出せるようになる。

失意のどん底に陥った時はその大切な事実を思い出そう。

私という存在は今を生きていいのだ。

今を生きる十分な権利と資格を持っているのだ。

私が今を生きるということは同じ事象に苦しむ誰かに希望を与えることに繋がるのだから。

私が今を前向きに生きれば彼も前向きに生きる勇気が持てるから。

自分という存在を自分で許容して自分のペースで生きていこう。

もっと自分を肯定して生きていこう。

自分側の人間がこの世界の何処かに必ず存在しているのだから。